薬師如来



薬師如来 (やくしにょらい)、あるいは薬師瑠璃光如来(やくしるりこうにょらい)は、大乗仏教における如来の一尊。大医王仏とも称する。

三昧耶形は薬壺または丸薬の入った鉢。種子(種子字)は尊名のイニシャルのバイ(bhai)。


薬師如来が説かれている代表的な経典としては下記のものが挙げられる。



 永徽元年(650年)玄奘訳『薬師瑠璃光如来本願功徳経』(薬師経)

 景竜元年(707年)義浄訳『薬師瑠璃光七佛本願功徳経』(七仏薬師経)

 建武~永昌年間(317~322年)帛尸梨密多羅訳

 大明元年(457年)慧簡訳

 大業11年(615年)達磨笈多訳



薬師本願功徳経では薬師如来は東方浄瑠璃世界(瑠璃光浄土とも称される)の教主で菩薩の時に12の大願を発し、この世門における衆生の疾病を治癒して寿命を延べ、災禍を消去し、衣食などを満足せしめ、かつ仏行を行じては無上菩提の妙果を証らしめんと誓い仏と成ったと説かれる。瑠璃光を以て衆生の病苦を救うとされている。無明の病を直す法薬を与える医薬の仏として如来には珍しく現世利益信仰を集める。




密教経典としては「薬師瑠璃光如来消災除難念誦儀軌」「薬師七仏供養儀軌如意王経」等がある。

薬師経に説かれていることから真言宗(東密)では顕教系の如来とされ、本来あまり重視されない。ただし「覚禅抄(東密)」において胎蔵大日如来と同体と説かれている。雑密系の別尊曼荼羅では中尊となる事も多いが純密の両界曼荼羅にはみられない。


一方で伝統的に皇室と結びつきが強かった天台宗(台密)では薬師如来が東方浄瑠璃世界の教主であることから、東の国の帝たる天皇と結び付けられもした。

「阿裟縛抄(台密)」で釈迦如来・大日如来と一体とされているが、顕教での妙法蓮華経に説かれる久遠実成の釈迦如来=密教の大日如来との解釈と、釈迦如来の衆生救済の姿という二つの見方による。


東方の如来という事から五智如来の阿閦如来とも同一視される。


チベット仏教(蔵密)でもよく信仰されており、しばしばチベット僧により日本でも灌頂(かんちょう)が執り行われる。




像容は立像・坐像ともにあり、印相は右手を施無畏(せむい)印、左手を与願印とし、左手に薬壺(やっこ)を持つのが通例である。

ただし、日本での造像例を見ると、奈良・薬師寺金堂像、奈良・唐招提寺金堂像のように、古代の像では薬壷を持たないものも多い。

これは、不空訳「薬師如来念誦儀軌」の伝来以降に薬壷を持つ像が造られるようになったと考えられている。単独像として祀られる場合と、日光菩薩・月光菩薩を

脇侍とした薬師三尊像として安置される場合がある。また、眷属として十二神将像をともに安置することが多い。

薬師如来の光背には、七体または六体、もしくは七体の同じ大きさの像容がある。これは七仏薬師といって薬師如来とその化身仏とされる。


薬師如来の縁日は毎月8日である。これは、薬師如来の徳を講讃する「薬師講」に由来すると考えられている。


国分寺のほとんどは現在は薬師如来を本尊としている。

自宅で鑑賞できる薬師如来




約160(H)×87(W)×95(D)mm 740g


モデルは飛鳥の地にあった旧山田寺の本尊として天武14(685)年に造像された薬師如来像の頭部。文治3(1187)年に現在の所蔵寺院へ移されたが、応永18(1411)年の火災で焼け落ち、被災を免れた頭部のみがその後新しく造られた本尊の須弥壇の中に収められた。500年以上も後の昭和12(1937)年、堂の修理の際に発見され、昭和42年に「銅造仏頭」として国宝指定された。