愛染明王



愛染明王(あいぜんみょうおう)は、密教特有の憤怒相を主とする尊格である明王の一つ。

梵名のラーガ・ラージャ(rāgarāja)あるいは、マハー・ラーガ(mahārāga)は、サンスクリット経典にその名は見られないが、チベットの経典や儀軌には散見され、中でもチベット密教の四大宗派に共通する後期密教のテキストである、「プルパ金剛」 の儀軌や次第、グル・デワ・ダキニの『三根本法解説』等には、「プルパ金剛十大忿怒尊」の一尊としてこの愛染明王が登場する登場するので、愛染明王はインド密教においてもポピュラーな忿怒尊であったことが伺われる。 

 

日本密教の愛染明王は、『金剛頂経』類に属するとされる漢訳密教経典の『瑜祇経』に由来し、この経典は正式名称を『金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経』といい、同経典の「愛染王品第五」に愛染明王が説かれている。その修法は、息災・増益・敬愛・降伏の『四種法』の利益をもって記述され、その功徳は、「能滅無量罪 能生無量福」(よく無量の罪を滅して、よく無量の福を生じる)とも説かれている。

また、同経典の中で「三世三界中 一切無能越 此名金剛王 頂中最勝名 金剛薩埵定 一切諸佛母」(三世の三界の中にあって、他の一切が誰もこの尊を越えることができ無いので、この尊の名前は金剛の王とされ、『金剛頂経』の中で最勝の名前であり、教主である金剛薩埵がこの尊を定めて、一切の諸仏の母とした)とも讃えられていて、これに基づいて金剛界で最高の明王と解釈される場合がある。

 

これに対して不動明王は胎蔵界で最高の明王と解釈される場合があり、たとえば東京都の金龍山浅草寺や、千葉県の成田山新勝寺等では両界の最高の明王として不動明王(胎蔵界)・愛染明王(金剛界)の両尊が祀られている。この日本密教における大日如来や如意輪観音、如意宝珠等を中心として、左右に不動明王と愛染明王の二体を祀る形式は非常に古く、他にも京都や高野山の古刹の寺院などに現在も少なからず見かけることができる。

歴史的な資料としては、空海と同時代の人物であるインドの密教行者グル・パドマサンバヴァが、国王ティソン・ディツェンの勅命によりチベットに初めて建立した国立の大寺院であるサムイェー寺は、四面二臂の『大日経』系の姿をとる大日如来を中心とする、三層から成る立体曼荼羅を実現させた密教寺院であるが、9世紀当時のバセルチン(dBa gSal snang)が著したチベットの歴史書である『バシェー』(dBa bzhed)によると、寺の入り口の左右には守護者である門神として、不動明王(アチャラ・ナータ)と並んで愛染明王(タキ・ラージャ)が祀られていたという。サムイェー寺は歴史の変遷の中で立替がなされ、現在はチベット動乱後にディンゴ・ケンツェ・リンポチェの資金援助で再建されたものが建っているが、チベット仏教で人気のある馬頭観音と金剛手菩薩(バジラ・パーニ)に換えられてしまっている。

日本では、この不動明王と愛染明王の両尊を祀る形式が1338年頃に成立した文観の『三尊合行秘次第』に始まるとされている。この説に基づくならば、現在、福山市にある円光寺・明王院は、大同2年(807年)に空海が開基したと伝えているが、この寺の境内にある五重塔(国宝)は貞和4年(1348年)に建立され、初層に大日如来を本尊として左右に不動明王と愛染明王を祀っているので、日本におけるその初期の例として挙げることが出来る。

 

衆生が仏法を信じない原因の一つに「煩悩・愛欲により浮世のかりそめの楽に心惹かれている」ことがあるが、愛染明王は「煩悩と愛欲は人間の本能でありこれを断ずることは出来ない、むしろこの本能そのものを向上心に変換して仏道を歩ませる」とする功徳を持っている。

愛染明王は一面六臂で他の明王と同じく忿怒相であり、頭にはどのような苦難にも挫折しない強さの象徴である獅子の冠をかぶり、叡知を収めた宝瓶の上に咲いた蓮の華の上に結跏趺坐で座るという、大変特徴ある姿をしている。

もともと密教における蓮華部の敬愛を表現した仏であるためその身色は真紅であり、後背に日輪を背負って表現されることが多い。

また、『瑜祇経』第五品に記される偈頌(げしゅ)である「衆星の光を射るが如し」の部分を再現した天に向かって弓を引く容姿で描かれた姿の高野山金剛峯寺に伝えられる「天弓愛染明王像」や、京都府木津川町山城町の神童寺像、山梨県甲州市塩山の放光寺像などがあり、更には、日蓮筆と伝える「愛染不動感見記」の馬に乘る八臂像や、両頭など異形の容姿で描かれた図像も現存する。

愛染明王信仰はその名が示すとおり「恋愛・縁結び・家庭円満」などをつかさどる仏として古くから行われており、また「愛染=藍染」と解釈し、染物・織物職人の守護仏としても信仰されている。さらに愛欲を否定しないことから、古くは遊女、現在では水商売の女性の信仰対象にもなっている。

日蓮系各派の本尊(曼荼羅)にも不動明王と相対して愛染明王が書かれているが、空海によって伝えられた密教の尊格であることから日蓮以来代々梵字で書かれている。なお日蓮の曼荼羅における不動明王は生死即涅槃を表し、これに対し愛染明王は煩悩即菩提を表しているとされる。

軍神としての愛染明王への信仰から直江兼続は兜に愛の文字をあしらったとも考えられている。

 

 

本誓と功徳

愛染明王の姿は『瑜祇経』に説かれる一面六臂が一般的で、密教の仏であるからその姿には様々な象徴的な意味があり、それを愛染明王の「本誓(ほんぜい)と功徳」としてここに明らかにしておき、愛染明王の仏教的な働きの意味の理解を深める一助とする。いわゆる愛染明王の姿の特徴は、一面三目・六臂で、頭上には獅子の冠を頂き、冠の上には五鈷鉤が突き出ていて、その身は赤色で宝瓶の上にある紅蓮の蓮華座に、日輪を背にして座っている。これらの相が示すその象徴的な意味は以下のようになる。

 

燃え盛る日輪を「織盛日輪」と言い、日輪は仏のもつ無上の浄菩提心を表し、燃え盛る炎は智火が煩悩に基づく執着や愛欲を悉く焼き尽くし、その「愛染三昧」の禅定が不退転となる仏の勇猛心であることを表している。

 

頭上に獅子の冠を頂き、髪の毛を逆立てて怒髪天を突くさまを表すのは、百獣の王である獅子が吼えるとあらゆる猛獣もすぐに静かになる譬えのように、憤怒の怒りの相と獅子吼によって諸々の怨敵を降伏して、一切衆生を救済することを表している。

 

冠の上に五鈷鉤が突き出ているのは、衆生の本有(ほんぬ)の五智を呼び覚まして、邪欲を捨てさせて正しい方向へと導くことを意味し、愛染明王の大愛[32]が衆生の心に染み入り、仏法の真実を体得せしめることを表している。

 

一面三目で身体が赤色であり、その身を五色の華鬘で荘厳する点は、三つの眼は法身と般若と解脱を意味し、世俗面においては仁愛と知恵と勇気の三つの徳を表す。身体が赤く輝いているのは、愛染明王の大愛と大慈悲とがその身体からあふれ出ていることを意味し、五色の華鬘でその身を荘厳するのは、五智如来の持つ大悲の徳を愛染明王もまたその身に兼ね備えていることを意味し、両耳の横から伸びる天帯は、「王三昧」に安住して如来の大法である真理の教えを聞くことを表している。

 

六臂として手が六本あるのは、六道輪廻の衆生を救う意味をもつ。また、左右の第一手は二つで「息災」を表していて、左手の五鈷鈴は、般若の智恵の音と響きにより衆生を驚愕させて、夢の如きこの世の迷いから覚醒させることを表し、右手の五鈷杵は、衆生に本有の五智を理解し体得させて、愛染明王の覚りへと到達せしめることを表している。

 

左右の第二手は二つで「敬愛」と「融和」とを表していて、左手の弓と右手の矢(箭)は、二つで一つの働きをするので、この世の人々が互いに協力して敬愛と和合の精神を重んじ、仏の教えを実践する菩薩としての円満な境地に至ることを意味している。また、愛染明王の弓矢は、大悲の矢によって衆生の心にある差別や憎しみの種を射落とし、菩提心に安住せしめることを意味し、そして矢は放たれるとすぐに目標に到達することから、愛染明王への降魔や除災、男女の縁結び[35]における祈念の効果が早く現れることをも表している。

 

左右の第三手は二つで人生の迷いや煩悩による苦しみの世界を打ち払う「増益」と「降伏」とを表していて、左手に拳を握るのは、その手の中に摩尼宝珠を隠し持っていて、これは衆生が求めるあらゆる宝と財産や、生命を育むことを意味していて、右手の赤い未敷蓮華(みふれんげ)は、それらの衆生の財産や生命を奪おうとする「四魔」[36][37]に対して、大悲の鞭を打ち振るい、魔を調伏することを表している。

 

愛染明王が座っている紅蓮の蓮華座は、「愛染三昧」の瞑想から生じる大愛の境地を実現させた密教的な極楽浄土を意味していて、その下にある宝瓶は、仏法の無限の宝である三宝を醸し、経と律と論の三蔵を蔵することを表している。また、その周囲に宝珠や花弁が乱舞するのは、愛染明王が三宝の無尽蔵の福徳を有することを意味している。

 

■愛染明王十二大願

愛染明王は仏としての誓願に基づき、一切衆生を諸々の苦悩から救うために十二の広大な誓願を発しているとされる。

 

 智慧の弓と方便の矢を以って、衆生に愛と尊敬の心を与えて、幸運を授ける。

 悪しき心を加持して善因へと転換し、衆生に善果を得せしめる。

 貪り・怒り・愚かさの三毒の煩悩を打ち砕いて、心を浄化し、浄信(菩提心)を起こさしめる。

 衆生の諸々の邪まな心や、驕慢の心を離れさせて、「正見」へと向かわせる。

 他人との争いごとの悪縁を断じて、安穏に暮らせるようにする。

 諸々の病苦や、天災の苦難を取り除いて、信心する人の天寿を全うさせる。

 貧困や飢餓の苦悩を取り除いて、無量の福徳を与える。

 悪魔や鬼神・邪神による苦しみや、厄(やく)を払って、安楽に暮らせるようにする。

 子孫の繁栄と、家運の上昇、信心する人の一家を守って、幸福の縁をもたらす。

 前世の悪業(カルマ)の報いを浄化するだけでなく、信心する人を死後に極楽へ往生させる。

 女性に善き愛を与えて良い縁を結び、結婚後は善根となる子供を授ける。

 女性の出産の苦しみを和らげ、その子のために信心すれば、子供には福徳と愛嬌を授ける。


日本で見られる愛染明王


○寺院

 

愛染堂(勝鬘院)(大阪市天王寺区)

金剛三昧院(和歌山県高野町)

舎那院(滋賀県長浜市)

愛染院(東京都練馬区)

光明山愛染院(東京都板橋区)

愛染明王堂(静岡県下田市)

駒形山妙高寺(新潟県小千谷市)

西大寺(奈良県奈良市)

久修園院(大阪府枚方市)

神護寺(京都市右京区)

神童寺(京都府木津川市)

覚園寺(鎌倉市二階堂)

長雲寺(長野県千曲市稲荷山)

放光寺(山梨県甲州市)

 

 

○美術館等

 

細見美術財団 - 絹本著色「愛染明王像」

五島美術館 - 木造「愛染明王像」

奈良国立博物館 - 木造「愛染明王像」

東京国立博物館 - 木造厨子入「愛染明王坐像」厨子絵

根津美術館 - 絹本著色「愛染曼荼羅図」「愛染明王像」(後醍醐天皇の宸筆あり)

MOA美術館 - 絹本著色「愛染明王像」

ボストン美術館 - 絹本著色「如来荒神曼荼羅図」


自宅で鑑賞できる愛染明王


イSム 愛染明王 あいぜんみょうおう

 

¥86,400

 

約305(H)×200(W)×145(D)mm 2.3g

 

モデルは、孝謙上皇の発願により平城京に創建された寺院に、秘仏として安置される重文 愛染明王。運慶様式を踏襲しながらも、美しく整った衣文の線や、誇張しすぎない上品な容貌などに独自の作風を感じさせ、わずか30センチ強の小像ながらも、鎌倉時代の名仏師・善円の高い技術と工夫が見られる。秘仏であるために、造像当時の彩色や截金が色鮮やかに遺される。